レーニンは亡命地(スイス)から帰国 (※) し、その翌日には、「4月テーゼ」を発表し、臨時政府との対決姿勢を示します。 ※ドイツは交戦国であるロシアの混乱をもくろみ、レーニンら革命家の帰国を … レーニンの「大量殺人」 (1)「反乱」農民の数十万人殺害 タンボフ、西シベリア、マフノの3大「反乱」だけでも、「反乱」農民の部隊は14万人います。とく… た北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛ら れ、それぞれが流動的に入れ替わりました。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが, 『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いています。, 9000万農民の「土地革命」によって、コサック優遇措置は、一般農民と同じになりました。コサック騎, 兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていました。それにたいして、レーニンと政治局は、コサ, ックにたいしてだけ「土地革命」農民なみの権利・権限を剥奪し、『農民』ファイルの『極秘指令(5)』の  レーニンが「殺した」自国民の数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になります。これ この連載では、3月17日の回からずっと、新型コロナウイルスのパンデミックに関連した問題を論じてきました。相変わらず状況は深刻なのですが、さすがに筆者もちょっとコロナ疲れしてきましたので、今回は気分を変えて、まったく違う話題をお届けしたいと思います。, 4月22日は、ウラジーミル・レーニン生誕から150周年という記念の日でした。言うまでもなく、1917年の社会主義ロシア革命の立役者にして、それにより成立したソビエト・ロシアの最高指導者です。レーニンは1870年4月22日の生まれですので、そこからちょうど1世紀半の年月が経過しました。, ごく個人的なことですが、筆者が初めて(そして最後に)ソ連という国を訪れたのは、1990年4月のことでした。当時、モスクワの街には至るとこに、「祝! レーニン生誕120周年」といった掲示物が掲げられていましたので、レーニンの誕生日はしっかり筆者の記憶にインプットされました。もう、それから30年も経ってしまったわけですね。, プーチン大統領が当初、改憲を問う国民投票を、4月22日に実施しようとしていたのも、明らかに、レーニン生誕120周年という節目を愛国的なムードの高揚に利用して、圧倒的な多数で改憲への賛意を取り付けたかったからなのだと思います。しかし、コロナウイルスの蔓延で国民投票どころではなくなり、3月25日には投票の延期が発表されました。, というわけで、今回のコラムでは、レーニンを取り上げます。ただし、超有名人ですので、その生涯、思想などについては歴史家、ソ連・ロシア研究者等によって語り尽されています。本コラムでは、世論調査結果を手掛かりにしながら、現代のロシアにおいてレーニンがどのような存在なのかということに絞って論じてみたいと思います。, 今回皆様に紹介したいのは、ロシアの「世論基金」という社会調査機関が、本年4月11~12日にロシア全土で1,000人の成人回答者を対象に実施した電話アンケートの結果です。, この調査で、まず、「4月22日は、我が国の歴史のどんな出来事と結び付いた日か?」と尋ねたところ、「レーニンの誕生日」と正しく答えられたのは、47%でした。社会層別の回答状況は、図1に見るとおり。最も顕著なのは、年配の人ほどレーニンの誕生日を知っており(ソ連時代に国を挙げて祝っていたので当然でしょう)、若い人たちにはその認識がほとんどないということです。あとは、学歴による差(義務教育→専門教育→高等教育と進むほど学歴が高くなる)が、多少見られる程度でしょうか。それ以外の、男女差や、居住地域の差などは、あまり大きくありません。, 次に、「レーニンはロシア史にどんな役割を果たしたか?」という設問の回答状況が、図2です。全体では、56%が肯定的役割と回答しており、否定的役割の20%を大きく上回っています。注目すべきことに、これに関しては社会層別の差があまり見られません。知識水準が高い層ほど否定的な評価が若干増える傾向こそありますが、若い世代を含め、レーニンについてのイメージは総じてポジティブであることが確認できます。, かつて、レーニンの名を冠した代表的なものと言えば、「北都」ことレニングラード(レーニンの街という意味)市でした。しかし、ソ連末期の1991年に実施された住民投票の結果(54%が改名に賛成)、同年9月にレニングラードは革命前の名前であるサンクトペテルブルグへと戻されています。ただし、その郊外部分に当たるレニングラード州の名前は変更されず、必ずしもレーニンの名が忌まわしいものとして捨て去られたわけではありませんでした。, ロシアの街では今日でも、最大の目抜き通りが「レーニン大通り」と名付けられている場合が、ほとんどです。そして、街の中心に行政府の庁舎があり、その前に「レーニン広場」が設けられていて、そこにレーニン像が立っているというのが、お決まりのパターンです。一例として、アルハンゲリスクという街の風景の写真を上に載せましたので、ご覧ください。, 当然のことながら、ロシアが共産主義・社会主義とは決別した以上、レーニン通りやレーニン広場の類も改名した方がいいのではないかという議論は、時折持ち上がります。今回のアンケート調査で、その賛否について尋ねたところ、結果は図3のようになりました。賛成が13%、反対が76%であり、反対派が圧倒的に優勢です。意外にも、レーニンの誕生日を知らないような若い世代でも、通りや広場の名前を変えることには、反対論の方が多いのです。, もう一つ、広場や公園からレーニン像を撤去すべきかという質問への回答でも、図4に見るとおり、反対論が圧倒的です。ここでは、反対の声が83%へとさらに膨らみ、しかもなぜか若い世代ほど反対論が強いというのが特徴的です。正直言えば、この数字には筆者も驚きました。, なお、本コラムの冒頭にレーニン廟の写真を掲げましたが、ここでは保存処理を施されたレーニンの遺体が廟内に安置され、一般公開されています。レーニンの遺体をこれからもこの廟内で展示し続けるのか、それとも埋葬を施すべきかというのは、宗教・倫理的な問題も絡むだけに、はるかにデリケートです。今回の「世論基金」による調査ではこの問題が問われませんでしたが、2017年に「レバダ・センター」が調査した際には、廟に残すべきだという意見が41%、廟から撤去すべきだという意見が41%で、真っ二つに割れました。, ロシアでは今日でも、街の真ん中に必ずレーニン像があり、大多数の国民はその撤去に反対している。そう聞くと、事情を知らない外国人は、「レーニンは圧倒的に人気があるんだな。この国では、いまだにマルクス・レーニン主義を信奉しているのだろうか?」などと勘違いしてしまうかもしれません。実際には、そういうわけではないのです。, この連載の第1回で、「なぜプーチンは『偉大』なのか?」というコラムをお届けした際に、「過去500年のロシアで最も偉大な君主は誰か?」というネット投票の結果を紹介しました。スターリン、ピョートル大帝、プーチンらに比べ、レーニンははるかに低い支持しか受けていませんでした。良くも悪くも、レーニンはロシア国民の情念を激しくかきたてるような存在ではないのです。, 連載第1回で筆者は、「ロシアで尊敬されるのは、強権的にでも国内に秩序をもたらす君主、諸外国に屈せず国益を守る君主、領土を拡大する君主です」と指摘しました。そうした観点からすると、おそらくロシア国民の意識では、レーニンは思想家・革命家としては偉大かもしれないし、大国ソ連の礎は築いたけれど、国家指導者としてはやや物足りないというイメージがあるのではないでしょうか。, それなのになぜ、ロシア国民は通りや広場にレーニンの名前を残したがり、レーニン像の撤去には難色を示すのでしょうか? そのヒントは、これも以前のコラム「ロシア国民はソ連崩壊の何がそんなに残念なのか?」にあります。ロシアでは、時期にもよるものの、概ね過半数の国民がソ連邦の崩壊を悔やんでいます。もちろん、ソ連にはモノ不足など問題も多々あったものの、超大国として世界にその名をとどろかせ、国内にはそれなりに秩序がありました。ソ連体制を復活させることは不可能だし望ましくもないが、過去を全否定はしたくないというのが、ロシア国民の心情なのだと思います。そして、その過去が、レーニンという象徴と結び付いているのでしょう。, 他方、ロシア以外の旧ソ連諸国で、民族主義や反ロシア主義が高揚すると、まず標的としてレーニン像が打ち壊されるという現象が起きます。たとえば、お隣のウクライナでは、割と最近までレーニン像が残っている街が多かったのですが、2014年の政変に際して、ほとんどが破壊されました。ロシア国民は、そうしたバンダリズムへの嫌悪感から、「我々はレガシーを守るのだ」と意地になっている面もあるでしょう。, というわけで、ロシアでいまだにレーニンの名前やレーニン像が至る所にあるからといって、レーニンという人物がロシア国民の大ヒーローというわけではありません(増してやマルクス・レーニン主義は何の関係もありません)。その証拠に、新しく出来た施設にレーニンの名前が付けられたとか、新たにレーニン像が作られたといった話は、聞いたことがありません。あくまでも、以前からあったものを否定はしない、というだけなのです。, わかるようでわからない、お隣の大国・ロシアと旧ソ連の国々について、おもしろく、わかりやすく、鋭く語ります。, おすすめのニュース、取材余話、イベントの優先案内など て、徴兵者の80%も農民兵でした。, レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)他地方では、「軍事=割 し」、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を「人質」に捕りました。彼らが『出頭』しなければ、“見せしめに”, 「人質」を殺害しました。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れの の他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがい, た。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そ 四月テーゼ (しがつテーゼ、ロシア語: апрельские тезисы )とは、1917年4月にレーニンが提起した10か条のテーゼの通称。 最初にボリシェヴィキの会議で読み上げ、数日後に発表された論文「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」に全文を引用した。 当徴発」制の穀物・家畜収奪政策と「反乱」農民鎮圧作戦に使いました。1920年夏以降のタンボフ県、西  タンボフ、西シベリア、マフノの3大「反乱」だけでも、「反乱」農民の部隊は14万人います。とくに内, 戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪に [51]。, ロシア第一革命への反応としてニコライ2世は十月詔書を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した[52] この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシンの指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン指揮下の党員がグルジアのトビリシで帝国銀行に対する武装強盗を決行した[53]。1906年4月にストックホルムで開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された[54]。, 1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国領クオッカラ地区で生活を始め[55]、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した[56]。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した[56]。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察機関の「オフラーナ」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した[57]。, 1908年5月、レーニンは短期間ロンドンで生活し、大英博物館の図書室を利用して『唯物論と経験批判論(英語版)』 を著し、有力なボリシェヴィキであるアレクサンドル・ボグダーノフが主張する相対主義の「ブルジョワ反動的な欺瞞」を攻撃した[58]。レーニンの分派的行動は他のボリシェヴィキとの不和を生み、アレクセイ・ルイコフやレフ・カーメネフといった元々の支持者をも遠ざけた[59]。オフラーナはこのレーニンの傾向を利用し、スパイとしてロマン・マリノフスキーをボリシェヴィキに送り込み、レーニンの分派行動を積極的に支持させることで党内の対立を煽った[60]。, 1910年8月にコペンハーゲンで開かれた第二インターナショナル第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後[61]、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し[62]、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンドと親密な仲になった[63]。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している[63]。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった[64]。このプラハ協議会(英語版)でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出したため、以降ボリシェヴィキとメンシェヴィキは正式に別々の政党となった[64][65]。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフ、オルジョニキーゼの他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており[64]、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された[66]。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した[66]。, 1912年7月、レーニンはガリツィア・ロドメリア王国のクラクフに居を移し、そこではヤギェウォ大学の図書館を利用して研究を行った[67][55]。1913年1月、スターリン(当時のレーニンは「素晴らしいグルジア人」と評していた)がクラクフのレーニンを訪問し、2人は帝国内の非ロシア人民族集団の将来について議論を交わした[68]。その後、レーニンは妻と共に田舎町のビャウィ・ドゥナイェツ(英語版)に移住し[69]、1913年5月には妻クルプスカヤに甲状腺腫の手術を受けさせるためベルンに移った[70][55]。, 1914年に第一次世界大戦が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィアに居た[71]。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された[72]。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り[73]、1916年2月にはチューリヒに居を移した[74]。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした[75]。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議と1916年4月のキーンタール会議に出席し[76]、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた[77]。, 1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義(帝国主義論)』の執筆を完了した[55]。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した[78]。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった[79][55]。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた[80]。, 1917年2月、二月革命が首都ペトログラード(開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマによってロシア臨時政府が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国」へと改革された[81]。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った[82]。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車(ロシア語版)に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した[83]。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ(英語版)に移動した後、フェリーに乗り換えスウェーデンを経由してヘルシンキへと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ[84]。, 1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した[85][55]。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ』を党の綱領案として発表した[86]。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト(英語版)を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエトへの権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した[87]。, その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民、水兵からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った[88]。1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ (七月蜂起) が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表したため、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された[89]。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが[90]、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した[91]。, 臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフは変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖(英語版)周辺に拠点を移した[92]。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命』として出版される本の執筆を開始した[93]。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた[93]。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた[94]。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した[95]。, レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフが軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーは(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊(英語版)」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた[96]。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた[97]。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された[98]。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した[99]。, 1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った[55]。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した[100]。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した[101]。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された[102]。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院(英語版)で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った[103]。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会(英語版)」の本拠として使われていた[104]。, 10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し[105]、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した[106]。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し[106]、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された[107]。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した[108]。, ボリシェヴィキは新たな行政府として 「人民委員会議(ソヴナルコム)」の設立を決定した。当初レーニンは人民委員会議のトップである議長への就任を固辞し、トロツキーを議長職に推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた[109]。レーニンらボリシェヴィキ指導者は1917年10月26日から27日にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会(英語版)に出席し、新政府の樹立を宣言したが、参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した[110]。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた[111]。, レーニンの政権は発足後ただちに一連の布告を発した。土地に関する布告では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的承認を与えるものだった[112]。 平和に関する布告では、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議した。1917年11月に出された別の布告は、ボリシェヴィキに反対する多くの報道機関を反革命として廃止した。この布告は報道の自由を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多くのボリシェヴィキ党員も含まれていた[113]。一方で、1917年12月20日には秘密警察として反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)を創設して反政府派の弾圧を始めた。憲法制定議会の選挙は11月に実施されたものの、第一党は得票率40パーセントを得た社会革命党となりボリシェヴィキは得票率24パーセントにとどまったため、翌年1月5日にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に退席し、同日解散させた[114]。, 権力の座についたレーニンは、政権にとって緊急の課題は中央同盟国と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた[115]。1917年11月、レーニン政権は第2回全ロシア・ソビエト大会で平和に関する布告を発表し、ドイツとオーストリア=ハンガリーの両政府に3カ月の休戦を提案した[116]。これを西部戦線に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し[117]、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線司令部が置かれるブレスト=リトフスクで始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェによって率いられるロシア側代表団が到着した[118]。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが[119]、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラントなど戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決権の侵害であると抗議した[120]。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた[121]。一方で、ニコライ・ブハーリンのような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた[122]。, 1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ[123]。1918年2月18日、ドイツ軍はファウストシュラーク作戦を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスクを占領するなど支配領域を拡大した[124]。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された[125]。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの支配領域となることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った[126]。, 1918年3月3日、中央同盟国との講和条約であるブレスト=リトフスク条約が締結された[127]。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26%、農業収穫面積の37%、産業の28%、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった[128]。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり[129]、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した[130]。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた社会革命党左派(左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(ドイツ語版)伯爵暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。, ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国と休戦協定を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した[131]。, 1918年1月、レーニンはペトログラードで暗殺未遂に遭ったが、フリッツ・プラッテン(英語版)が盾となり代わりに銃弾を受けたことで負傷を免れた[132]。1918年3月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは人民委員会議をモスクワへと移転した(当初これは一時的な処置となる予定だった)[133]。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリンに居を移した[134]。1918年3月の第7回党大会にて、ボリシェヴィキは党の正式名を「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党」に改称したが、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった[135]。1918年7月、第5回全ロシア・ソビエト大会(ロシア語版、英語版)において新憲法(ロシア語版、英語版)の制定が承認され、ロシア共和国は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」へと改められた[136]。また、国家の近代化を目的として、ロシアの従来の暦であるユリウス暦の使用は廃止され、他のヨーロッパ諸国と同様のグレゴリオ暦に切り替えられた[137]。, 1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った[138]。実行犯としてエスエル党員ファーニャ・カプラン(ロシア語版、英語版)が逮捕され、処刑されたが[139]、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて右翼エスエルを弾圧するきっかけになった。事件はロシアで広く報道され、同情を受けたレーニンの人気は高まった[140]。また、暗殺未遂の「報復」と称して事件とは無関係の512人もの旧貴族や臨時政府の閣僚を含む政治家、軍人が、ただ帝政派であるという理由だけで逮捕、処刑された(→赤色テロ)。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキの邸宅に移された[141]。, 西部戦線で休戦協定が結ばれた後、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が巻き起こるのは今や時間の問題であると考えた[142]。革命を促進するため、人民委員会議は1919年3月のクン・ベーラによるハンガリーの共産主義政権樹立を支援し、それに続いてバイエルンでも社会主義政権が樹立され、ドイツの他地域でも(1月のスパルタクス団の武装蜂起を含む)社会主義者による革命的蜂起が続発していた[143]。1919年3月にはモスクワで国際共産主義組織「コミンテルン」の創立大会が開催され、レーニンはその開会演説を行った[144][55]。大会期間中、レーニンは参加各国の代表団に向けて、修正主義的マルクス主義者が信奉する議会主義を厳しく批判し、ヨーロッパのブルジョワ政権を暴力的手段によって転覆するよう改めて呼びかけた[145]。コミンテルンの初代議長にはジノヴィエフが就任したが、レーニンはこの組織に対する重大な影響力を保ち続けた[146]。, 1920年7月、ペトログラードのスモーリヌイ学院(英語版)で第2回コミンテルン大会が開会し[147]、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において資本主義社会の段階は不可避とする自らの長年の見解(二段階革命論)を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた[148]。レーニンはこの大会のために『共産主義における左翼小児病』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した[149]。最終的に、レーニンが予想した世界革命勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された[150]。, 革命後の列強による干渉戦争や内戦により、ボリシェヴィキ政権は戦時体制を強いられた(戦時共産主義)。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発された。内戦終了後、レーニンは新経済政策(ネップ)と呼ばれる新しい政策を打ちだした。余剰穀物の徴発に代えて食糧税を導入し、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた。一定の範囲内で私的商業も認めた。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張した[151]。, レーニンは少年時代には既に、権力と癒着し腐敗していたロシア正教会に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日にロシア正教会の弾圧を指示、『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』と厳命した[152]。これにより多くの主教達を処刑し、教会資産の没収が強行された。同様の弾圧は、ウクライナ正教会、グルジア正教会など、ロシア正教会以外の正教会やイスラム教のモスクに対しても行われた。チェーカーを動かし、聖職者の処刑と教会資産の没収が強行されていったのである。以降グラスノスチまで、イコンの所持は禁止された。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。, レーニンは1921年末から健康状態を悪化させ、1922年には何度か発作を起こして職務から離れた[153]。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけグルジアをめぐって党内に対立が起こっていた。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国が成立して以来、ロシア共産党中央委員会カフカース局がグルジアをアゼルバイジャン・アルメニアとともにザカフカース連邦として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。, 1922年8月、ヨシフ・スターリンは、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、という「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソヴィエト同盟に加入する、という代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた[154]。, しかしこの決議ではグルジアはザカフカーズ連邦を通じてソヴィエト同盟に加入することになっていたため、グルジア共産党は拒否し、中央委員会のメンバーが総辞職した。11月にはロシア共産党のオルジョニキーゼが独立派のグルジア共産党員を殴るという事件が起こる。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した。12月31日に口述筆記された覚え書きで、彼は「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不平等をしのぶことでなければならない」と記した。, この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは翌1923年1月4日の「大会への手紙」(いわゆる『レーニンの遺書』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。3月5日にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、3月6日にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日、彼は発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った[155]。, レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなり、再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。, モスクワ郊外のゴールキ(現在のゴールキ・レーニンスキエ)の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、国外からオトフリート・フェルスター(英語版)、ゲオルク・クレンペラー(ドイツ語版)らの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として臭化カリウムなどが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。クルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。, レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは8人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている[156]。なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ、弟ドミトリーはいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。, 葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。, レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。, ソ連崩壊後、1930年代から1950年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ・ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「香油液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体を香油液漬けにするケアで現在まで遺体を保存しているという[157]。, なお、ロシア政府はエリツィンのころより、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、そのつど国内の猛反対にあい撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。2012年12月に大統領のウラジミール・プーチンはレーニン廟を聖遺物に準えて保存を主張した[158]。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた[159]。, 歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、レーニンは自分が宿命を負った人間 (man of destiny) であると考えており、自らの理想の正しさと革命指導者としての能力に少しの疑念も抱いていなかった[160]。伝記作家ルイス・フィッシャー(英語版)はレーニンを、「急激な変化や極端な変革の愛好者」であり「折衷とは全く無縁であって、何事も黒か赤かの二者択一に誇張する人間」であったと評している[161]。歴史学者リチャード・パイプスは、レーニンが非常にカリスマ性のある人物であったと指摘しており[162]、ドミトリー・ヴォルコゴーノフも同様に「(レーニンは)その強烈な個性そのものによって、人々に影響を及ぼすことができた」と評している[163]。他方、レーニンの友人であったマクシム・ゴーリキーは彼の容姿について「禿頭で、ずんぐりと」して「あまりにも平凡」であり、「指導者然とした印象」を与えるものではなかったと述べている[164]。, サーヴィスによれば、若き日のレーニンは非常に感情的であり[165]、皇帝の権威に対して強い憎悪を示すのと同時に[166]、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキーといった思想家達への「愛情」を培い、彼らのポートレイトを所有し[167]、私的な会話の中で自らがマルクスとエンゲルスを「愛している」とも語っていた[168]。ヴォルコゴーノフの見解では、レーニンはマルクス主義を「絶対的な真理」と捉えており、「宗教的な狂信者」のように振る舞っていた[169]。バートランド・ラッセルもまた、レーニンが「マルクス主義の福音への確固たる、宗教的な信仰」を有しているとの印象を抱いた[170]。それらの指摘にもかかわらず、レーニンは無神論者であり、また宗教の批判者であった。レーニンは無神論が社会主義の前提であると理解しており、したがって「キリスト教社会主義」は名辞矛盾であると考えていた[171], レーニンはロシア語の他にフランス語、ドイツ語、英語を話し、また読むことができた[172]。健康に気を遣って定期的な運動を心がけており[173]、水泳、狩猟、サイクリングを好んだほか[174]、スイスでは山歩きへの情熱を育んだ[175]。ペットも好み[176]、特にネコを可愛がっていた[177]。乱雑さを嫌い、デスクは常に片付けられ、鉛筆は尖った状態に保たれており、仕事中には完全な静寂を要求した[178]。パイプスは、レーニンが「私的な欲望について極端に自制的」であり、したがって「質素な、ほとんど禁欲的と言える生活スタイル」を送っていたと指摘している[179]。フィッシャーによればレーニンは「最低限度」の虚栄心しか持っておらず[180]、したがって自らに対する個人崇拝も忌み嫌っていたが、それが共産主義運動の統一化に有益である可能性は認めていた[181]。, レーニンの性格について、サーヴィスは時に「気まぐれで短気」であったと述べ[182]、パイプスは「徹底的な人間嫌い」であったと評したが[183]、歴史家クリストファー・リードはパイプスの見解に反論し、レーニンが人間、特に子供に対して親切心を示した例は数多く存在すると指摘している[184]。複数の伝記作家によれば、レーニンは反論されることを許容できず、しばしば自分と異なる率直な意見をはねつけたほか[185]、自らの見解にとって不都合な事実を無視し[186]、妥協することを極度に嫌い[187]、間違いを認めることは非常に稀だった[188]。, レーニンは自分は民族的にロシア人であると認識していたが[189]、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており[190]、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた[191]。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた[192]。, レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなった[193]ため、その影響は全世界に及んでいる[194]。ドミトリー・ヴォルコゴーノフはレーニンを評して「史上あれほどの規模で、あのように巨大な社会をあれほどに大きく変革した人物はほとんど存在しない」と述べている[195]。, 歴史学者アルバート・レシス(英語版)は、20世紀で最も重要な出来事を十月革命とみなす場合、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している[196]。ロバート・サーヴィスは一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor)」の1人と扱われているとしており[197]、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している[198]。アメリカの雑誌『タイム』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか[199]、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している[200]。, レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって全体主義体制、あるいは警察国家と表現され[201][202]、また一党独裁体制であったと評されている[203]。一部の学者はレーニンを独裁者と形容しているが[204]、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している[205]。同様に、ルイス・フィッシャー(英語版)も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている[206]。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している[207]。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、チェーカー(秘密警察)やグラグ(強制収容所)などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している[208]。, レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。その過程でレーニンは神格化されていった。スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。また、レーニンのロシア革命が植民地解放運動を支援したこともあって、第三世界ではレーニンを評価する傾向がある。, 一方、第二インターナショナルの社会民主主義者はレーニンを厳しく批判した。カール・カウツキーは1918年に出版された『プロレタリアートの独裁』で民主主義論の観点からボリシェヴィキの一党独裁を批判した。レーニンに比較的近い政治的立場をとっていたローザ・ルクセンブルクも獄中で書いた草稿「ロシア革命のために」でボリシェヴィキによる憲法制定議会の解散について批判的な視点を示した。レーニンはカウツキーに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』で反論し、カウツキーを背教者と非難した。, ウラジーミル・レーニン1917-1924 / アレクセイ・ルイコフ1924-1929 / セルゲイ・シルツォフ1929-1930 / ダニール・スリモフ1930-1937 / ニコライ・ブルガーニン1937-1938 / ヴァシリー・ヴァフルシェフ1939-1940 / イヴァン・ホフロフ1940-1943 / アレクセイ・コスイギン1943-1946 / ミハイル・ロドノフ1946-1949 / ボリス・チェルノウソフ1949-1952 / アレクサンドル・プザロフ1952-1956 / ミハイル・ヤスノフ1956-1957 / フロル・コズロフ1957-1958 / ドミトリー・ポリャンスキー1958-1962 / ゲンナジー・ヴォロノフ1962-1971 / ミハイル・ソロメンツェフ1971-1983 / ヴィタリー・ウォロトニコフ1983-1988 / アレクサンドル・ウラソフ1988-1990 / イワン・シラーエフ1990-1991, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p13 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p15 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p16-17 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, 「ロシア革命 破局の8か月」p131-132 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷, 「ロシア革命 破局の8か月」p203-204 池田嘉郎 岩波新書 2017年1月20日第1刷, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p84 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p86-87 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, 「レーニン 二十世紀共産主義運動の父」(世界史リブレット人73)p100 和田春樹 山川出版社 2017年5月30日1版1刷発行, Российская Социал-Демократическая Рабочая Партия, http://jp.rbth.com/articles/2012/12/17/40459, http://jp.sputniknews.com/amp/russia/201904226161835, http://www.britannica.com/EBchecked/topic/335881/Vladimir-Ilich-Lenin, https://web.archive.org/web/20150114032814/http://content.time.com/time/specials/packages/article/0%2C28804%2C2046285_2045996_2046096%2C00.html, https://archive.org/details/russianrevolutio00pipe_0, https://archive.org/details/leninsgovernment0000rigb, https://archive.org/details/chekaleninspolit0000legg, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ウラジーミル・レーニン&oldid=80292078, Googleの機械翻訳を翻訳の手がかりにすることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。, 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。, 自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったからという説がしばしば挙げられるが、彼のいた, クレムリンにはレーニンが使用していた執務室と私室が保存されているが、見学は許可されていない。, ペトログラードはレーニンにちなみ、レニングラードと改名された。また、生地のシンビルスクも彼の本名にちなんで.